どうして、急に桜丸のことで泣き出すの?
『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」でのことです。
「寺子屋」では、松王丸は自分の子どもを菅秀才の身替りに送り込み、源蔵がその首を討つのを聞き、首実検に応じ、偽証をします。これほどの悲劇がありましょうか。これほどツライ現実があるでしょうか。
自分の子どもが死んでもツライ。もし何らかのトラブルが起きて死んでいなかったとしたら、それはそれで計画失敗ということなのでツライ。どちらにしてもツライし、ましてや首実検をするということは真正面に子どもの生首と対峙しなければいけません。
そんな辛いことはなかなかあることではありませんが、松王丸はやりぬきます。その後2度目の出で、源蔵に事実を打ち明けます。
そして、小太郎の最期の様子を聞き、千代と共に涙にかきくれます。
「利口な奴、立派な奴、けなげな八つや九つで、親に替わって恩送り。お役に立つは孝行者、手柄者と思うから」とそのあとで、
「思い出すは桜丸、御恩送らず先立ちし、さぞや草葉の陰よりもうらやましかろ」と泣くのです。
子どものこと泣いていたのに、急に桜丸のことが出てくるので戸惑う方も多いのではないでしょうか。
「御恩送らず先立ちし」というのは、桜丸のこと。
桜丸は前段で、菅丞相の娘 苅屋姫と斎世親王の仲を取り持ちました。しかしそれがもとになり、菅丞相は流罪となってしまいます。桜丸は責任を感じて切腹をして果てました。菅丞相の恩に報いることもなく死んでしまいました。
松王丸は、恩に報いることもできずに死んでしまった弟のことを思って泣くのです。
しかし、わが子が死んで泣いているかと思いきや、いきなり弟のことを言いだすので共感しづらいと感じる人もいますし、まして前段を観ていない人にとっては「ん?桜丸って誰?」となってしまいます。いかにも唐突な感じがしてしまいます。
でも松王丸にとっては「同腹同性を忘れかねたる悲嘆の涙」であり、常に桜丸のことを忘れずにいた松王丸が、桜丸のために涙を流すのですね。
六代目菊五郎は「一説には必ずしも桜丸のことばかりに就かなくてもいいと言われていますが、私はやっぱり桜丸のことを思い出して泣くことにしています」(川尻清潭『六世菊五郎百話』右文社昭和23年)と言っています。
けれども現代の客にとって、そこがちょっとわかりづらい。
私は、ここはやはり桜丸のことを考えているのだと思います。松王丸はとてもつらい状況にありましたが、それよりももっとつらい状況にあった三つ子の兄弟に思いをはせたのだと思います。
私たちの人生でも、そんなことはありませんか?
かけがえのない親を亡くした。その事実は消えなくてつらくてたまらない。けれども世の中にはもっとつらい人がいる。自分の子を亡くした人は今の自分よりもっとつらいのだろうかと思いをはせる。
それで自分を慰めるということではありませんが、もっとつらい状況の人を思い出す、あるいは思うということはあるのかなと思います。
松王丸は、小太郎が菅秀才の身替りになったことで菅丞相にそれまでいただいた恩を返すことはできました。けれども自分のせいで菅丞相が流罪になってしまい切腹をした桜丸は、恩を返すことすらできませんでした。辛かろう。
小太郎は、わずか8つでその命を絶たれる。不憫なことだ。小太郎のことを思うと辛くてたまらない。でも小太郎は立派に役目をはたしてニッコリ笑って死んでいった。しかし桜丸はそうではない。そう思って松王丸は泣くのです。
こちらは白鸚のインタビューです。3ページ目に桜丸のことを思って泣くところについての心持ちについて書いてあります。
千代に「桜丸が不憫でならぬ」と言葉をかける型もあるが、それだと桜丸への気持ちが分散されるという気がするといっており、興味深いです。
さまざまな役者がそれぞれ考えて役を演じています。