今月の仁左衛門演じる「御浜御殿綱豊卿」が、今日本にいたら観るべき一等賞なので、ぜひ多くの人に観てほしい。
- ◾️「吉良の命をとるだけで仇討ちがすむわけではない」とはどういう意味か。
- ・心あるものは、みな赤穂浪人たちの動きに注目している
- ・そち達が本望を遂げるというのは、同時にまた天下幾十万の武士が、その心を遂げることにもなるのだ
- ・義の義とすべきはその起こるところにあり、決してその仕遂げるところにあるのではない。
- ◾️当時の綱豊卿
- ◾️その後の綱豊卿
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上記のブログでは、
お家再興を後押しすれば仇討ちはままならぬ、どちらを選ぶか迷う殿様が、赤穂浪士の富永助右衛門に本当に仇討ちをする気はあるのか真意を探るという筋を紹介しましたが、これだけでは少しものたりない部分があります。
◾️「吉良の命をとるだけで仇討ちがすむわけではない」とはどういう意味か。
「吉良の命をとるだけで仇討ちがすむわけではない」と綱豊卿がいいますが、どういう意味でしょう。仇討ちしたいのであれば、首を取れればよいのではないでしょうか?何も大勢で屋敷に押し寄せなくても、助右衛門が首を取れば取ったでよいのではないでしょうか。
目の前にいる吉良を討とうとする助右衛門に対して、激しく叱責する綱豊卿ですが、どうして吉良の命を取るだけではいけないというのでしょうか。
そのヒントは、作中綱豊卿のセリフにいくつかありました。
・心あるものは、みな赤穂浪人たちの動きに注目している
まずは、元御座の間にて。
綱豊卿
「何か目論見ごとなどあれば、それはそち達だけの目論見と思うては間違いであろうぞ」
目論見というのは、仇討ちのことです。元禄15年にもなり、世の中は太平の世となって侍心は地に堕ちている。心あるものは、みな赤穂浪人たちの動きに注目していることを忘れてはいけないと綱豊卿は言います。
助右衛門は、仇討ちのことを知られたくないという気持ちから、心をオープンにできず、綱豊卿のメッセージは届きません。
・そち達が本望を遂げるというのは、同時にまた天下幾十万の武士が、その心を遂げることにもなるのだ
綱豊卿
「武士相身たがいというが、これは金品をもって乏しき人を助けるという意味ではない。おのれの侍心を持って、ヒトの侍心を立ててやるのが武士相身互いの情というものだ。そち達が本望を遂げるというのは、同時にまた天下幾十万の武士が、その心を遂げることにもなるのだ」
つまり、立派な行動を起こすかどうかが天下の武士たちの侍心にも影響をすると言っています。これに対して助右衛門は
「(次第に下らんとする頭を無理に押したて)お暇人は、いろいろお暇な考えをなされましょう」
などとまぜっかえすばかり。
ならば、内蔵助が放埓三昧をしているのはどう思う、と問われて助右衛門は知りませぬとシラを切ります。タガが外れた桶では水は汲めと言われても無理な話などと言ってそっぽを向きます。
綱豊卿は、赤穂浪人たちに武士として仇討ちをしてほしいと本心では思っていますが、一方でお家再興をしてほしいと他方から頼まれていることもあり、悩んでいるのです。そこで再度助右衛門に詰め寄ります。
そしてついに、明日、浅野家再興のお願いをするつもりだと助右衛門に告げます。そうなると仇討ちはできませんから、助右衛門はついに敷居を越えて綱豊卿の足元に走りより、じっと顔を見上げて
「浅野家再興御内願の儀は…」と言って詰まります。「おやめください!」とは言えず、そのままむせび泣いてしまいます。綱豊卿は真意を悟り、出ていきます。
・義の義とすべきはその起こるところにあり、決してその仕遂げるところにあるのではない。
その後、吉良を討つために能舞台裏に潜んだ助右衛門。吉良だと思って襲い掛かるとそれは綱豊卿でした、ここで「大だわけ者!」と一喝されます。
そして綱豊卿は、助右衛門を諭します。
「男子義によって立つとは、その思い立ちのやむに已まれぬところにあるのだぞ。義の義とすべきはその起こるところにあり、決してその仕遂げるところにあるのではない。」
つまり、男子がこれこそ正義だと考えて困難な事業に立ち上がることはやむに已まれぬところにある。その結果にあるのではない。汚い手を使って吉良の胡麻塩頭を墓前に捧げても内匠頭は喜ばない。右手に浅野家再興の願いを出しながら左手で吉良を討つのは、武士として立派とは言えないし、日本中の心ある武士はそこを注目している。
内蔵助は、決して油断させるためだけに放蕩をしているのではなく、浅野家再興か仇討ちか、どちらか正しいことなのか、寂しくじっと考えているはずだ。
お前たちが今すべきは、自分たちの本分を尽くして、誠実に真心を込めて日々を過ごすこと。そうすればおのずから結果は出てくるだろう。
そんなことを綱豊卿は、助右衛門の首根っこをひっ捕まえて説諭するのです。
セリフの応酬で、わかりづらい部分はあるかもしれませんが、セリフを一つひとつたどっていくと綱豊卿の人間性、ヒトの大きさに魅入られます。
◾️当時の綱豊卿
当時の綱豊卿は、将軍候補ではありつつも決定ではないという不安定な立場が長く続いていました。5代将軍綱吉の甥でありながら、優遇されず、長い冷遇時代を送っていました。しかし、将軍待望論は多かった名君で、オブザーバーに新井白石を選び、正しい道を歩んでいました。
◾️その後の綱豊卿
綱豊卿は、48歳で6代将軍家宣となります。お喜代は7代将軍となる家継の母、月光院となります。家宣は「生類憐みの令」や酒税の撤廃により、優れた為政者と言われましたが、残念ながら将軍職について3年でこの世を去りました。