「初めての歌舞伎を楽しもう」munakatayoko’s blog

すばらしき日本の芸能、歌舞伎。初心者にわかりやすく説明します♪

『連獅子』~勘九郎・長三郎 かわゆらし。仔犬のごとく跳ねて走ってたわむれて

今月の「猿若祭」、夜の部の最後を締めくくるのは、勘九郎と次男長三郎の『連獅子』。勘九郎と長男勘太郎の『連獅子』がもう3年前かと驚く。またひとつ、中村屋の歴史が続いた。めでたかるべし。

 

 

 

f:id:munakatayoko:20240222140820j:image

 

f:id:munakatayoko:20240222140327j:image

 

長三郎は、2013年5月22日生まれの10歳。勘太郎も2023年11月の丑之助も9歳で踊ったから、長三郎が特に幼いわけではない。なのに、お兄ちゃんがいるせいかいつまでたってもかわいい印象で、もう10歳か?と指折り数えてしまう。

 

丑之助が同じ年の11月生まれだから長三郎の方が半年上なのだが、どうもかわいらしい印象。ふっくらした丸いほっぺた、少し細い目はまるで木目込み人形のような愛らしさ。

数々のエピソードや伯父七之助らの言う「宇宙人のよう」という証言から、自由人の様子がうかがえるし、天性の愛嬌者のところ、いたずらをしてもどこか許してしまえる「人たらし」なところは18勘三郎に似ているのかな?そして、兄弟ながら勘太郎のときの仔獅子とは全く印象が異なる。

 

けなげで一生懸命な勘太郎と違って、長三郎の連獅子はふわっとして、自由で、本人も楽しんでいるように見えた。もちろんふざけてはいないし、大真面目にきちんと踊っているがどこかひょうひょうとしており楽し気。とてもかわいらしい。そこは勘太郎にはなかったところだ。考えてみると勘太郎にも丑之助にも「かわいらしい」という感想は全く思い浮かばなかった。かわゆらしいのは、長三郎の個性なのかもしれない。

静謐な前ジテ。

〽峰を仰げば千丈の雲より落つる滝の糸 谷を望めば千尋なる そこはいずくと白波や

 

勘九郎親獅子が、遠く高い滝から落ちる怒涛の水や、遥か谷底でざっぱーんと白波が立っているところを、視線を遠く見上げ、下にずらし、扇をヒラヒラさせて表現する。その視線の先を追えば、まるで清涼山の景色が目の前に現れるようだし、谷底は目がくらむほど深い。

 

『連獅子』は険しい岩の先から仔獅子を蹴落として、上ってくる強い仔だけを育てるという伝説を踊りにしたもの。

仔獅子を深い谷底に蹴落とすが、仔獅子は身をひるがえして駆け上ってくる。それをまた突き落とし、突き落とし。

もう駆け上ってこなくなってしまう。

〽上り得ざるは臆せしか あら育てつる甲斐なやと

ああ、もう上ってこられないか。情けない。残念だという気持ちとともに、勘九郎の心配そうな表情が印象的。

 

仔獅子は木陰(花道)で休んでいたが、心配そうに谷底をのぞき込む親獅子の様子が川の水面に映ったので、元気を取り戻して駆け上がる。

 

〽翼なけれど飛び上がり

 

仔獅子は駆け上り、親獅子は「こい、こい」とばかりにうれしそうに出迎える。

蝶々とたわむれながら、親子は息もピッタリに、楽しそうに踊る。

 

ひらりひらりひらひら

と花道へ。愛らしい長三郎。微笑んでいるように見えた。

 

前ジテで出てくる狂言師が持つ手獅子が、狂言師に乗り移って、後ジテでは獅子になって登場する。

振り切っている宗論。

蓮念(橋之助)と遍念(歌昇)。歌昇は、昨年の浅草の連獅子のときも遍念を演じているがその時よりずっと、笑わせにかかっている。今年のどんつくで新境地を見出したか、グレイテストカショーマンの面目躍如。「いよ~~~うとましや」の時の、うとましそうなことといったら。「うんにょ~~~うとましや」と、顔にまで気合が入る。

それが正解であるのかどうかは知らないが、面白かった(笑)。

雷鳴とどろき、橋之助の「中村屋親子によく似た獅子がやってくるのではあるまいか」で場内笑いに包まれる。

荒ぶる後ジテ。

大薩摩のあと、静まり返った場内。

 

〽影向の時節も今幾程によも過ぎじ

 

「影向の時節」とは文殊菩薩の現れることを意味し、文殊菩薩が現れるまでいくらも時間がかからないだろうという意味。なぜ連獅子に文殊菩薩がでてくるかといえば、獅子は文殊菩薩の乗り物だからだ。親獅子は文殊様につかえるあとつぎを拵えるために子獅子を厳しく仕込むのだそう!

二畳台に牡丹の枝が立てられ

ホー!はー!イヨー!いやー!っと乱序となり、

 

カッと花道に照明がともり、しゃりんと揚幕の音が鳴って、風格のある勘九郎親獅子の登場に拍手。続いて一段と大きな拍手が沸き起こって長三郎仔獅子の登場。

 

仔獅子のみ後ずさりに下がって一旦揚幕の中へ。親獅子は二畳台の上で仔獅子を待つ。

ついに仔獅子も本舞台へ。

いよいよ佳境へ。

前へ垂れている毛を左右へふる「髪洗い」、右、左へ叩きつけるように振り分けるのを「菖蒲たたき」、頭上で円を描くようにふるのを「巴」。

 

二畳台で待つ親獅子勘九郎の顔がとても怖くて驚く。私は3回『連獅子』を観たのだけれど、1回目はそうでもなく、優しい慈愛にみちた親獅子だったように感じたが、2回目は2度見するほど怖い顔をしていた。通常最後の毛振りは、親獅子がコントロールをして親子でタイミングが合うようにするものだが、2回目のときは勘九郎獅子は、ガンガン振り、仔獅子を待つ気など毛頭なく、仔獅子置いてきぼりでものすごい迫力で振っていた。

 

ふわふわした長三郎君が中日ころに何か怒られてしまったのだろうか?これは想像に過ぎないが、何か怒られるようなことをしでかしたか、もしくはその兆候を勘九郎が感じ取ったのか、とにかく、1回目と2回目の毛振りではまるで違ったのである。3回目観たときにはまだ勘九郎は長三郎を置いてけぼりでブンブンと振り回していた。ついてこられるものならついてこい!とでも言いたげな、恐ろしい親獅子なのだった。

 

これは個人の想像にすぎないし、期待でもあるのだが、千穐楽間近にもう一度変化がみられるのではないだろうか?私が確認するのはできないので残念だが、最後に穏やかで仔獅子の振りに合わせて、親子できっちりと踊るか、もしくは長三郎がその挑発に負けずに勘九郎に追いつくか(それはさすがに無理。10歳!)どういった変化が観られるか。本当の親子獅子の戦いはまだまだ続きそうだ。千穐楽に観られないのは残念。ネットの感想を楽しみにしたい。長三郎くん。がんばって!

 

【追記:22日に4回目を観た】

2回目、3回目ほど勘九郎は荒ぶっていなかったし、美しく毛振りを合わせていた。が、ラストでいきなりぽんぽーんと超高速になり、仔獅子を振り切って高みに駆け上がってしまった!

まるで「へん!まだまだ。来られるものなら来てみろ」と高い崖に駆け上ったようだった。おもしろい。実におもしろい。千穐楽まで毎日観たいが、もう観られない。きっと千穐楽には感動ものが観られそうな気がする。期待。でも観られない。

 

そして長三郎は、とてもきちんと丁寧に踊っているのが印象的。

 

それにしても『連獅子』。何度見ても、誰のを見ても、その都度違うのでおもしろい。まあそれは『連獅子』に限ったことではなく、歌舞伎の魅力の一つでもあるのだが。

籠釣瓶の中の連獅子

今月昼の部で上演されている『籠釣瓶』で連獅子が出てくるのを皆さんはお気づきだろうか。縁切りの直前、ワイワイとにぎやかな宴会のシーンで、幇間ふたりが赤い手ぬぐいを頭に巻いてクルクルと回して踊っている。昔は連獅子もずっとポピュラーでこんな風に宴会芸になったのかしら?ちょっとこっけいな連獅子を楽しむ間もなく、縁切りの場になってしまうのだけれど。

 

概況

1872(明治5)年河竹黙阿弥作詞、三世杵屋正二郎の作曲、初世花柳壽輔の振り付けで、五世坂東彦三郎、二世澤村訥升で初演。現在のような宗論を挟んだものになったのは1901(明治34)年。初世市川猿之助と四世市川染五郎(七世松本幸四郎)が踊りその後人気作品となった。

 

2018年以降の「連獅子」レポはこちら。特に勘太郎や丑之助の時との違いも読んでもらえるとうれしい。それぞれ親の向き合い方も全然違うので。

munakatayoko.hatenablog.com