2020年2月19日。歌舞伎座昼の部を観る前に、知人の紹介により、道明寺天満宮宮司である南坊城光興氏にお話を伺う機会がありました。大変興味深かったので書き留めておきます。(許可を得ています)
道明寺のあらすじについては、こちら
菅原伝授手習鑑 道明寺 - 「初めての歌舞伎を楽しもう」munakatayoko’s blog
◆土師と道明寺と菅原の関係
その昔、高貴な方が亡くなると、仕えていたものは生きたまま埋められていました。こういう風習はよくないということで、土で人の形を作り、これを人の代わりに埋めましょうとなったそうです。
埴輪です。殉死に代え、埴輪を作った功績によって、職人たちに土師(はじ)という名前が与えられました。
師というのは、専門職という意味。
今でも教えるのは教師、看護する人は看護師というように「師」がつきますね。教えるプロが教師。看護するプロが看護師ですね。そして、土を扱う専門職ということで土師という苗字が与えられ、所領地として賜ったのが土師神社の始まりだそうです。その後道明寺と改称しました。
土師氏は、昨年世界遺産になった大阪の古墳群を作ったりし、土に関わる名誉のある名前だったのですが、墓に埋める埴輪を作っていたというのは縁起が悪いと、苗字を変えたいと考えました。そのころ土師氏が住んでいた地名が菅原だったので、菅原という姓になりました。その子孫が菅原道真なのだそうです。
江戸時代、寺子屋などの遠足では道明寺に来て、菅原道真の木像を拝むというのが一つのルートだったそうですから、地元にいた人にとっては土師村と言えばなじみがある。土師という人が出てくれば、あそこに住んでいる人だなというのが、わかったそうです。いうまでもなく土師兵衛という人が「道明寺」には出てきますね。
◆木像に命を吹き込まれるというアイデアはどこからきたか
さて、菅原伝授手習鑑の道明寺は、木像が生命を得て、菅原道真を助けるという話ですが、このちょっと突拍子もないように思えるアイデアは、一体どこからきたのでしょうか。
3大名作と言われる菅原伝授手習鑑、義経千本桜、仮名手本忠臣蔵がいつできたかはご存知ですか。
菅原伝授手習鑑 延享3(1746)年
作/竹田出雲、並木千柳、三好松洛、竹田小出雲
義経千本桜 延享4(1747)年
作/2世竹田出雲、並木千柳、三好松洛、
作/2世竹田出雲、並木千柳、三好松洛、
です。何と3年連続で同じ作者で(竹田出雲は、亡くなったため息子が後を継ぐ)この名作が生み出されているのですね。
実は、「菅原伝授手習鑑」ができた1746年の前年、延享2(1745)年に、道明寺天満宮の修復工事が行われたそうです。大きな修復の前には、街にでて出開帳というものが行われました。
出開帳というのは、今でいえばクラウドファンディングのようなもの。こういうことをやりますと広く世にアピールして、資金を集めるのです。道明寺は、菅原道真の御神像を大阪市内、京都で出開帳し、修復費用を広く募っていました。御神像というのは、菅原道真が道明寺を去る前に、自分で自分の像を彫り、形見にしてほしいと覚寿に置いていったものです。
三好松洛たちはその出開帳を、見たのではないでしょうか。そして、木像が動くというアイデアがひらめいたのではないか。
非常に心がワクワクするお話でした!
三好松洛は、街に出て、人々が集まっているところに行ってのぞき込み、何があるのかをみて、ひらめいた。
アイデアがひらめいたのもよかったのですが、この芝居が大ヒットを飛ばしたのは、地元の人であれば、みんな道明寺がどういう寺であるのか、菅原道真がどんな人であったのか、菅原道真と道明寺の関係をよく知っていたわけですね。断腸の思いで自分の形見となる像を彫り、第2の故郷である道明寺、そして伯母覚寿に別れを告げて行ったことを知っている。
時々出開帳を行っているから、道真公の木像にもなじみが深い。だから、今よりずっとすんなり、この芝居が腑に落ちたのではないでしょうか。
注)覚寿は、道真公の父是善卿の妹ですから、本来は「叔母」であるべきですが、菅原伝授手習鑑本文でも伯母となっているため伯母と表記します。
お話を伺ったのは、東銀座の歌舞伎座ギャラリーの隣にある寿月堂にて。
美味しいお茶をいただき、その後見た昼の部。堪能できたのは言うまでもありません!
菅原道真と言えば福岡の太宰府ばかり注目されがちですが、大阪藤井寺市の道明寺がこれほど菅原道真に縁が深いとは知りませんでした。宝物館には菅原道真公の遺品もたくさんあるそう。使っていた櫛やサイの角で作った小刀など!これで木像を彫ったんでしょうか。
道明寺のパンフレットをいただきました。
藤井寺市道明寺は、松竹座のあるなんば駅からも30分ほど。松竹座に行ったときにでもぜひ寄ってみたいと思いました。
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