松本へ、木ノ下歌舞伎を観に行ってきた!

▲剥き出しの階段。赤い鳥居。TOKYOの看板
5時間越えの話題の歌舞伎。原作の『三人吉三廓初買』(初演安政7年1860年)は全部上演したら10時間近くなるらしいけれど、それを泣く泣く木ノ下歌舞伎は5時間半にしたということだ。
だから、これでもカット版と言えるんだけれど、有名な三人の泥棒の話だけではなくて、文里と一重の廓での話がカットされずにはいっており、さらに初演以降カットされっぱなしになっていた「地獄の場」という場がなんと154年ぶりに上演された2014年、2015年に続く今回は3度目の上演だ。
時系列の入れ替えやセリフの現代語訳やカットはあるものの幕ごとカットしたところはなく、ほぼ底本通りという大変な力作、労作だ。木ノ下さんもすごいが、あらためて黙阿弥の偉大さに打ちのめされる。
というのは、三人吉三の話はまあ知っていて、それだけでも因果がめぐる話ですごいのに、そこに文里と一重のストーリーが絡んでくるわけ。どうなっちゃうのかな、カオスかなと思っていたけれど、実は逆に広がりがあって深さがある。
1年というスパンの中で起こる様々な出来事が、激動の江戸と明治のはざまにあって、立体感をもって浮かび上がる。2次元の世界が3次元、いや4次元に広がったくらいの驚きがあった。
『三人吉三』は三人の同名の悪人が最後は破滅していく物語なんだけれど、破滅といってもそれは家や親の因果などに縛られて自分ではどうにもならずに破滅していく話なのだ。だからくら~~い。

例えば和尚は、父伝吉が安森家から庚申丸を盗んでそのときに孕み犬を斬り殺してしまう。そのため双子の弟妹が呪われ、畜生道に落ちる。
それを知った和尚は、せめてもの情けで二人を殺すことを決意し、義兄弟であるお坊、お嬢を救うために首を利用する。二人は、自分たちが近親相姦であることを知らずに、極楽を夢見て死んでいく。(近親相姦は畜生道と言われて地獄行き)
お坊は、庚申丸が盗まれたことで、父親が切腹お家は断絶に追い込まれた。庚申丸を探し出してお家の復興を願っているけれど、どうやって探していいのやら途方にくれている。
お嬢は、5歳のときに人さらいにさらわれて、それから生きるために犯罪を重ねてきた。親とは生き別れのまま。
3人は出会うべくして出会ったけれど、結局破滅していく。
けれども、文里と一重の物語があることで、かすかに物語に希望が見えてくる。家族に縛られて自滅していく3人なのだけれど、文里とおしづは、文里と一重の子どもを引き取って生きていく。
一重は、お坊の妹で、お家断絶のあおりを食って苦界に身を落としていた。だから、最初はお坊に「早く庚申丸を見つけて、お家復興!お家復興!」とイラついている。(ちなみにここは、原作にはなく、ずっと一重とお坊の関わりがないのはおかしいという意図で木ノ下歌舞伎が挿入したところ)
文里の愛にも気づかずやたらイラついている。それが、次第に文里の愛に気づき、子を宿し、その子に「安森家復興」を押し付けることなく死んでいく。死んでいくときには書置きで、自分のことを「安森家娘」ではなく「新吉原の遊女、一重」と言っている。そうか、お家復興の呪縛から逃れて文里の愛に気づき、そしてふうっと楽になったのね。
おしづにしても、なんでそんなに夫の不倫相手(とその子供)に寛大なんだといぶかしい気持ちになったのだけれど、昔は疫病や災害で人がバンバン死んだそうだ。だから生きている者同士が、助け合い、子どもを引き取ったり預かったりというのはよくあったそうだ。
そういえば、広島原爆の話の「この世界の片隅に」のラストシーンもそうだった。
そういえば、壺井栄の「母のない子と子のない母と」なんて小説もあった。
生きていることはいとおしいこと。家族の呪縛から離れて、疑似家族が手をとりあって生きていく話なのか。というこれは木ノ下さんの解説で納得したのだけれども。
そんな話だったの?すごくないですか?黙阿弥さん。そして掘り起こした木ノ下さんと杉原さん。
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