「初めての歌舞伎を楽しもう」munakatayoko’s blog

すばらしき日本の芸能、歌舞伎。初心者にわかりやすく説明します♪

木の実 小金吾討死 すし屋 ~義経千本桜~ 仁左衛門

義経千本桜 すし屋は、江戸のやり方と上方のやり方が違う。ここのところ、何回も上演されているのでその差を観ることができたのはとてもよかった。

 

 

江戸と上方の違い

 

もともと義経千本桜は人形浄瑠璃から生まれたもの。浄瑠璃は関西弁だから上方の方がもともとで、その後五世幸四郎、三世菊五郎から五世菊五郎が江戸型を完成させた。

 

最近では、6月の菊五郎博多座・すし屋のみ)昨年10月の菊之助国立劇場)の権太が江戸のやり方。そして今回は、仁左衛門が上方の権太を魅力的に見せてくれた。

 

江戸と上方では小道具、衣裳、権太の性根などが異なるわけだが、さらに役者が自身の解釈を入れて工夫をする。

 

さらに、日々チャレンジ、日々進化させる役者となれば、その日によっても演出は異なるわけで、生き物のように日々違う舞台を体験できるわけだ。

江戸の型では、権太の性根は、ちょっと粋。上方の権太はごろつきの中にも愛嬌がある。

江戸の権太は自分のことは「わっち」。ピシッとしていて侠客風。

上方の権太は「わし」。テケテケ歩いて、いかにも不良ぽい。

間違えた荷物を持ち帰った江戸の権太は、「まっぴらごめんなさってくださいまし」なんて小金吾に言うけれど、上方の権太はそんなことは言わない。

「前髪一本ずつ引き抜くぞよ!」なんて小金吾に悪態をつくのは上方の権太だ。

上方の権太は、しょうもないあかんたれという感じで、服装も汚い。すし屋にお金をたかりに来たときは、同情を買う意味もあって、ことさら汚い服装だ。

 

すし屋では、後ろの棚に置いてあるものが違う。江戸では何やら四角いもの。鮓を詰める箱かな?

上方では、桶がズラリ。

 

すし屋で最初に登場した権太が絵姿を見ながら弥助が維盛であることを確認するのは、江戸。それはわかりやすくていいと思うが、仁左衛門の権太ではそれは見られない。延若の型では、木の実の場で小金吾の後ろからのぞき込んで絵姿を見るそうだ。

 

そして、例の桶を取り違えるトリックのところも、江戸と上方では桶の数も違えば、入れ替わりのトリックも異なる。

 

権太がこせんと善太を身替りにして、「ツラ見せろ」と二人の顔を見せるときのポーズも江戸と上方では違う。

 

仁左衛門の権太

そんなあかんたれごんたくれ権太を仁左衛門は愛嬌、ワルの顔を見せるとき、甘えたり、居直ったり、クルクルと演じ分ける。

この人、子どもの役もできるのではないかと思うほどに、天衣無縫で軽やかだ。

 

「前髪一本ずつ引き抜くぞ!」(小金吾に) 

「へへ、こっちを振り返ってにらんでけつかる」とか

「ばばあ、早くでてこんか~い」(すし屋で母に)

といった下卑た言い方をする一方で、善太の手を取って「冷てえ手だなあ」(というのはどちらの権太もいうけれど)にざ権太は「あんまり冷やすと腹壊すで」なんて優しい言葉を一言追加するからグッとくる。

 

そして、これでもかこれでもかと涙腺を刺激してくる仁左衛門の権太。

 

印象として、今回の仁左衛門権太は、辛さ悲しさを前面に押し出す、子どもっぽくてでもお父ちゃんに認められたい愛しい権太だった。そこまでやるか的な部分も含めて愛しい権太だった。

 

弥左衛門の「今直る根性が、半年前に直ったら」という慟哭に、うなづきつつ

私たち観客は、簡単に涙腺を崩壊させられる。右の人も左の人も前の人も、ハンカチを握りしめ、嗚咽していた。

 

権太は、せっかく「及ばぬ知恵で梶原をたばかったと思いしに、それもあっちが皆合点。思えばこれまで多くの人を騙ったも、果てはおのれの命を騙らるる種と知らざるあさましや」

 

つまり、一生懸命考えて梶原をだましたつもりだったけれど、みんな梶原・鎌倉はわかっていた。思えば今までいろいろな人をだましてきたのが、自分の命をとられる種となってしまったのだなあ。

 

とがっくり。刀を抜いてうわーと絶叫して手を合わせて幕。

菊五郎権太は静かに目を閉じる。それもまたいい)

 

そして千穐楽では仁左衛門権太は最後うっすらと笑顔になっていたのが衝撃的だった。

ああ、最後に少しでも父親と心が通い合っていることに権太は満足したのだと思って救われたように感じた。

こせんと善太が殺されてしまうという運命であるなら、権太にはもはや生きることへの執着もないのかもしれず、「おい、またすぐ会えるな、」とこせん、善太に心の中で声をかけていたのかもしれない。

 

さらなる今回の工夫は本火

さらに今回の仁左衛門が、前回の南座でも見せなかった工夫に、本火を使ったことにある。あれには参った。

 

にざ権太は、こせんと善太を差し出すときに何度か涙をぐっとこらえる。手ぬぐいを目に押し当てたり、上を向いたり。火がけむいけむいと言って涙が出るのをごまかすのだ。

 

今回、けむいというところで、いつもは小道具が作り物のたいまつであるところを本火(本物の火)を使っていた。本当の火だから臨場感が増す。そればかりか本当に煙が出ていて、本当に煙い煙いというところがより強調されていた。これまでやっていてまだ工夫できる余地はないかと、日々チャレンジを続ける仁左衛門の、あっと驚く工夫だった。

 

記者会見の場だったか

日々チャレンジしてますよ、とサラリという仁左衛門。そしてお客様を引っ張り込むのには、(自分としては)新作ではなくて、古典をより深く解釈して掘り起こすことでお客を引っ張り込むという趣旨のことを言っていた。

それは新作を批判ではなくて、若い人たちは新作で、自分は古典で、各々あたらしい観客を呼び込んで盛り上げていこう、頑張ろうというエールだと感じた。

 

これ以上できないところからまたさらにもう一歩と歩み続ける仁左衛門丈には、本当に頭が下がる思いだ。

 

6月のいがみの権太を見ての感想が下書きのまま放置されていたため、今頃アップいたします。