9月9日に中野の武田修能館で「能ワールドへのいざない」が開催されました。
▲登壇者は、和久荘太郎さん
▲会場となった武田修能館
9月9日が重陽の節句ということで、そこに絡めてからのお話1時間半でした。
能とはなにか。歌舞伎とは何が違うのか。能舞台とは。
歯切れのいい声で優しく、ゆっくりとわかりやすくお話をしてくれた宝生流能楽師の和久さんですが、実際に謡を語るとその声は一変。同じ人とは思えないほど、太く雄々しくこちらの腹の底までずしりと響くのでした。この日は重陽の節句の話から重陽の節句にふさわしい演目『猩々』の説明の後、一節を語ってくださいました。
▲会場には、お酒好きの妖精「猩々」を描いたお皿が飾られていました
また能舞台でのお話でしたので、和久さんは縦横無尽に動き回りつつ、柱の名称、由来、舞台の機構、舞台の見え方などについても話してくださったのでイメージが湧きやすく、理解が深まりました。一番安い席での面白い楽しみ方も伺うことができましたよ♪
▲笑顔をたやさず。
■能と歌舞伎はどう違うの?
「能とか歌舞伎とかさー」なんて文脈で言われることの多い能と歌舞伎ですが、似て非なるもの、それが能と歌舞伎です。
「歌舞伎は、大道具や小道具をフル活用していますからエンタメ的に楽しめますが、能は小道具も大道具もほとんどありません。積極的に自分から入っていかないと何も流れては来ません」と和久さん。確かに受け身で待っているだけでは、ただ眠くなるだけです。
「『菊』『月』といったキーワードが聞き取れたら、そのキーワードに付随する美しいものを想像すれば舞台上にイメージが出現します。それは個人個人違うもの。それが能なんです」と和久さん。
すべて理解しようと思わなくていいという言葉に気が楽になりますし、自分なりのイメージを膨らませればいいのだと気づかされます。
確かに、そんな経験を私もしました。そこに気づいたときに、能の面白さに一歩近づいたのです。
能の「盛久」を観たときの経験がこちらです。
■五流派の関係やシテ方の仕事について
能には流派が5つあり、一番大きな流派であるのが観世流、和久さんが所属する宝生流は、芸風も似ており、観世流の兄弟のような存在です。この二つを上掛かり、ほかの金春流、金剛流、喜多流の3つを下掛かりといいます。それぞれ同じ演目でも所作や演出、装束に違いがあります。
おもしろかったのは能楽師の仕事は明確に専門化されているというお話。能楽師にはシテ方、ワキ方、狂言方、囃子方がおり、それぞれが兼ねることはないというのです。つまり、和久さんはシテ方。シテ方というのは主役を専門にする職業であり、和久さんがワキ方をすることは、一生ありません。普通の演劇でも演奏者と演者は違うかもしれませんが、脇役が一生脇役ということはありませんよね。そこにそれだけ一生をかける専門性があるのだというお話でした。
シテ方は、シテ、ツレ、後見、地謡などの役割があり、そのほか道具を作るなどの仕事もシテ方が行います。
■一般家庭から能楽師になれるのか?
和久さんは能楽師の家に生まれたわけではありません。日本舞踊や剣道を習っていた子どものころの和久さんは、お父様も大好きだったテレビドラマ「子連れ狼」の萬屋錦之助にあこがれていました。剣道から居合、さらに歌舞伎と興味を感じて、とはいえ日本舞踊にも未練があり、迷いつつも次第に能の世界に近づいていった和久さんの半生が楽しく語られました。
中学2年のときにたまたまもらった能のチケットが能との初めての出会いであり、さらに高校入学後、能楽研究部という部活動があることがわかりすぐ入部したといいます。
当時の和久さんは気づいていなくても、能楽師への道はすでに目の前にまっすぐ伸びていたようにも思えますね。
■能は武道。歌舞伎はエンタメ
能は、もともと室町時代に観阿弥・世阿弥が完成させましたが、徳川家が朝廷の雅楽に対抗して権威付けのために能を式楽と定めました。能の精神は武道に近く、江戸時代には舞台上で役者が間違えたり絶句する失態があると、打ち首だったそうです。後見は常にその覚悟があるということで、脇差を差していたというお話に、思わず、会場の空気がヒュっと凍ります。でも「今は差しません。間違って切腹をしていたら命がいくつあっても足りませんから」と穏やかに語る和久さんに、思わずホッとする会場です。
それに引き換え、歌舞伎は庶民に楽しんでもらうエンタメですから、似てはいるものの成り立ちから精神性が全く違うのですね。
■能の根源は、神を喜ばせること
演劇一般も元はそうだったわけですが、能の根源とは「神を喜ばせる」ことにあります。しっかりと根の張った老松に神は降りてきます。老松は神が宿る木と考えられていて、その前で踊って神を喜ばせていたのが芸能の始まりだったのですね。能から歌舞伎にうつった演目はたくさんありますが、その場合は「松羽目物」と呼ばれて舞台の背景に松が描かれます。観客が目にする松は、本来正面にあるべき松を、まるで鏡に映っているかのように後ろに描くので「鏡松」と言われます。
■「翁」と「邯鄲」
神様を喜ばせる能は今でもあり、それが「翁」です。たくさんの曲がある中で「翁」はただ祈るだけ。
武田修能館よりお借りした翁の面を見せていただきました。
▲翁の面
▲面の内側も見せていただきました
「翁」自体が神様で、能役者は舞台上でこの面をかけると、その役者自体が神となる。神が憑依するのではなく、神そのものになるということでした。面をはずすとまた人間に戻ります。
こういう話を聞いておくと、次に「翁」を観たときに大変興味深いですね。
歌舞伎でも『三番叟』はよく出ますが、翁と千歳が出てくるところはちょっと退屈で早く三番叟が出てこないかなどと思ってしまいがちですが、次回からは厳粛な気持ちで見られそうです(お恥ずかしい)。
また『邯鄲』のお話もありました。一睡の夢でも有名な『邯鄲』は、知っている方も多いと思います。おかゆが煮えている間に栄華を極める邯鄲ですが、ほんのおかゆが煮えている間の夢に過ぎなかったという中国のお話です。この演目でも、大がかりな演出などはありません。舞台右手に用意された1畳分の台が、粗末なベッドから豪華な宮殿にもなり、玉座となり、大宮殿となっていく。
歌舞伎であれば、セリや回り舞台を使い、豪華な大道具、小道具を使うところでしょうね。でも能ではすべてが観客のイメージの中にあるというわけです。
この『翁』と『邯鄲』、観たくなりますよね~。実は9月29日に宝生能楽堂で観られるそうです!乞うご期待!
能の豪華な装束や面も披露していただき、たっぷりの1時間半。ここでは書ききれない話もまだまだ盛りだくさんの充実した講座となりました。2回目、3回目の講座がとても楽しみですね。
▲唐織の豪華な衣裳
▲猩々の面
そうそう、和久さんは能の面をオークションで買ったこともあるそうです。買ったところ江戸時代の大変高価なものであることがわかったとか。薄汚れて、どこかの蔵の隅に打ち捨てられていた面が、和久さんの手に渡り、職人の手により見事に息を吹き返したのも、時代を超えたタイムトラベル的なお話でした。
▲終演後も気さくに質問に応じる和久さん
■能のお稽古
和久さんはプロの能楽師ですが、素人にもお稽古をつけてくださいます。プロを目指す弟子は師匠から何も教えてもらえないそうですが(見て盗む)、素人には優しく教えてくださるそうですよ♪
お稽古に興味がわいた方はこちら
9月29日(日)第10回和久荘太郎 演能空間
今日のお話にあった邯鄲と翁を演じられます。
ご興味のある方、ぜひ観劇ください!こちらの情報もホームページにて見られます。
【能ワールドへのいざない】
日時:2024年9月9日(月)19:00~20:30
場所:武田修能館
主催:Ginza楽学倶楽部