「初めての歌舞伎を楽しもう」munakatayoko’s blog

すばらしき日本の芸能、歌舞伎。初心者にわかりやすく説明します♪

木ノ下歌舞伎「桜姫東文章」初日観劇レポ

池袋あうるすぽっとにて2月2日初日に観てきた。

ネタバレがあるので、これから観る人は読まないほうがよいです~。

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まずはよかったところから。

よかったところ

 舞台は舞台であり、楽屋であり、観客席であり

舞台はなんだか古着屋さんのようなセットで始まった。無造作にかかっている衣裳はただの飾りで置かれているわけではなく、次から次へと役者さんは着替えて次の役にスムーズに進む。舞台には鏡もあり、桜姫が岩淵庵室で身づくろいをするところに使ったりするのはもちろんだが、清玄から権助の早替わりではさっと上に着ていたものを脱ぎ、鏡を見ながら顔のあざの化粧をとっていた。舞台セットが楽屋でもあるというのがおもしろかった。
出番のない役者は舞台手前に座り、あるいは寝転び、観客の体。ここぞというところでは大向こうをかける。ひとりずつの屋号は「紅屋!(桜姫)」ほか、「ポメラニアン!」「ダルメシアン!」など、なんだか雰囲気が似ていておかしい。

 幽霊役には何と!

これはどうしても早替わりでは無理というのが、幽霊が出てくる場面で、歌舞伎では別の俳優が演じる。これはビックリ。風船(?)で対処。間抜けな目鼻をつけたバルーン?下から空気を入れるとバッとふくらむ、アレである。アレで幽霊を表現するとは。
もう少しリアルでもいいんじゃないかと思ったけれど、どんなにリアルにしても作り物にしかならないのだから、むしろあれくらいでよかったのかも。ベストとは思わないけれど、ベターだったのかな。いろいろ考えたんでしょうね。私もまだ正解はわからない。

 ざわつく心をあらわす音楽

音楽は、ずっと舞台上にて演奏をしていたのは甲田徹さん?パンフレットには音響甲田徹って書いてあったけれど音響?。【追記】荒木優光さんでした。失礼しました。

ずっと心がざわざわするような音はとても舞台に合っていてよかった。ちなみに、私の席からは鏡にこの音楽を担当している方がうつるので、二人に見えた。

 美しい石橋静河

やはりこの人なくては語れない。美しくて、立ち回りでもピシっと決まっていたのはさすが。体の線も美しく、毅然とするところ、しなっと心が揺れるところの表現力はよかった。

ところで、立師・所作指導は中村橋吾さんなんですね。立ち回り、所作、よかったです。

 ストーリーを追える字幕

舞台奥に簡単な文章が映し出される。
ストーリーを追うのに大変な観客にとってはありがたかったが、時々役者も確認するように見ていたのは、そんなことはないだろうが「おい、覚えていないのか」と感じられて興ざめだった。それは芝居の世界から、現実に戻されてしまうようだったから。

 

あと原作では

「八百善の仕出し」になっているところが「なだ万の仕出し」になっていて、ウケていた。

 

あまりよくなかったところ

 なぜ? 演出の数々の謎

なぜ、普通にしゃべらないのだろう?

とつとつとしたしゃべり方は何か意味があるのだろうか?「今日はこういうふうな芝居を試験的にやってみましょう」というワークショップを見ているよう。

 

なぜ、体をくにゃくにゃ動かすのだろうか?

あれは、何か意味があるのだろうか?今のところ私にはさっぱりわからない。

現代演劇ってあまり見たことがないので、こういう風に「何か」しないといけないのだろうか?何か意図があると思うのだけれど、私にはくみ取れなかった。

 

たとえば歌舞伎で野田秀樹の「野田版 桜の森の満開の下」を観たとき、私には、舞台はきれいだったけれどもさっぱり意味・意図がわからない部分が多かった。でも野田ファンにはとてもウケていた。だから岡田利規ファンには私がくみ取れなかった部分もわかるのかもしれない。

 ストーリー初見の人わかるのかな

私は桜姫東文章が好きで歌舞伎には何度も通ってみたし、台本も読んでいるのでよくわかったけれど、これ初めて観た人わかったのかな?というところが心配。

主役も一人二役(清玄と権助)だけれど、それだけではなくて役者が少なくて、一人で5役もこなしている役者さんもいて、それほど化粧で顔を変えているわけではないから、非常に混乱すると思う。私も、小雛と半十郎が出てくる寺子屋のところでは完全にギブアップとなってしまった(歌舞伎ではカット。南北の原作を復活させた意義は大きいけれど)

歌舞伎では役が変われば顔を変えて出てくるし、性根を変えているから一人が何役をやろうと別人になるけれど、別人になるという点では、皆さんイマイチだったのではないかと思う。(顔も性根も)
3~5役やっている人だけではなく、清玄・権助しかり。

権助はもっともっと下卑た色気と、桜姫に対して持っているコンプレックスを出してほしい。成河はすごく期待していたけれど、本来の力を出し切れていないような気がする。


桜姫は一役だけれどもお姫様と後編の違いもまたいまいち。

 

役の違いのメリハリがいまいちだから、全体がぼけた。

 赤ちゃんの取り扱い

赤ちゃんは、クッションのような顔もなにのないようなもので、これはこれで全然OKだけれど、やはり赤ちゃんとして大事に取り扱ってほしい。最後のほうでお十がひっつかんでふりまわしていたので、それはいかがなものかと思った。

原作との解釈の違い

 お家の再興なんて意味がない

原作をどう解釈したかということについて。岡田さんは、「独自の解釈についてなるべく加えないように、心がけて上演をつくったつもりです。というのも、これはそれやりだすときりがない作品だから。とはいえ前面に出ている部分がまったくないわけではありません。」
とパンフレットで語っている。
確かに!そして、一番前面に出ていた部分がラストだと思う。

 

桜姫って、

お姫様→強姦された強盗に惚れて入れ墨を入れる

→父と兄を殺されて、お家の家宝盗まれ出家を決意

→レイプした強盗に再会して、出家をするのをやめる

→強盗と夫婦となったが、女郎に売り飛ばされる

→女郎として人気が出る

→お化けにストーカーされて人気が落ちて女郎をクビになる

→お化けに冷たくする

→夫が父と兄の仇であることを知る

→父と兄の仇である夫と、仇の子である自身の子を殺してお家の重宝を奪還

→お家再興

という流れなので、「自由奔放だけれど、結局家に縛られて解放はされない」といった見方をされることがあるのだけれど、私はそうは思っていなくて、やりたいようにやったんだと思う。

 

そして、今回の解釈では、原作通り子どもと権助を殺し、お家の重宝を奪還するのだけれど、重宝はポイしちゃって、お十が「ハレルヤ!」と叫んで幕。

これは、最初観たときは「はぁ?それはない!」と思った。なぜなら都鳥の一巻をポイするなら、権助と赤ちゃんは殺さなくてよいのに、犬死にになってしまったと感じたからだ。

しかし、一晩寝てつらつら考えてみると、父と兄の仇は取る、しかしお家の再興はどうでもよいという解釈にしたのだなと理解した。それはそれで一つの解釈だと思った。なんとなく、すっきりしないけれど。

 お十の取り扱い

原作のお十は、実は桜姫の味方で、桜姫のためお家再興のためなら何でもする。軍助の妹であり粟津七郎の妻であり、共に桜姫のために力を尽くす。そのためには桜姫のかわりに女郎にもなるし、最後は正体を明かし、桜姫を守って戦うという役。


けれども、現代の視点から見れば、お家のために女郎にされたりして、お家のためという大義名分の前にいいように使われているわけで人権無視もはなはだしい。今回のお十はそちらに力点を置いている。

「ああ、また人ではなくものとして扱われている~」
「そこで使われるのは誰だかわかりますか?みなさん。お十ですよ」
と、自嘲気味なセリフを吐き、お十はちょこちょこ出てくる。時にはマイクを持って「お十です」と、モノとして扱われたときには注意喚起。ぷうぷうと風船ガムをふくらませて体をくねらせる。そして最後には「ハレルヤ!」。お十もお家再興なんてばかばかしいと思っていたのかな。

あんなにくねらなくてもいいと思ったけれど。

まとめ

なんとなくまだ未消化ですが、初日の感想でした。

あらためて、こんな素っ頓狂な八方破れなお話を、すーっと違和感なく見せてくれる仁左衛門玉三郎の底力はすごいな、と感じた。様々な場面で、仁左衛門玉三郎がリンクしてしまって、もう一度観たくなってしまった、歌舞伎の方を。

 

また、歌舞伎を知らず今回木ノ下歌舞伎で「桜姫東文章」を観た人は、ぜひ仁左衛門玉三郎の「桜姫東文章」を見てほしい。面白く観られるのではないかな。

 

まだまだ書き足りないけれど。

千穐楽でもう一度観るので、どれほど感想が変わるか自分でも楽しみです。

 

作:鶴屋南北

監修:木ノ下裕一

補綴:木ノ下裕一、稲垣貴俊

脚本演出:岡田利規

出演:成河 石橋静河 武谷公雄、足立智充、谷山知宏、森田真知、板橋優里、安部萌、石倉来輝

 

ちなみに歌舞伎の桜姫東文章のあらすじとか権助のワルっぷりとかなぜ権助は死ななければならなかったのかとかはこちらに。

munakatayoko.hatenablog.com

オールアバウトの記事はこちらに。

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