「初めての歌舞伎を楽しもう」munakatayoko’s blog

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「並木宗輔」を深掘る ~作者と劇評家のコトバで読み解く 歌舞伎のセカイ 第3回

4月17日国立劇場伝統芸能情報館レクチャールームにて、「第3回 作者と劇評家のコトバで読み解く 歌舞伎のセカイ「並木宗輔」を深掘る」 が開催されました!

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▲木ノ下さんと田中さん。田中さんの装い、今回は洋装で素敵でしたー。

 

皆さんは、歌舞伎の作者と言ったら誰の名前が頭に浮かびますか?鶴屋南北近松門左衛門河竹黙阿弥あたりでしょうか。

今回は、「並木宗輔」と聞いて、「ん、誰だっけ」そんな風に思った人もいたようです。しかし、この並木宗輔という人、なかなか並々ならぬ人だったのです。

今回もじっくり、そして熱く、木ノ下さんと田中さんが語り合ってくれました!

 

並木宗輔を選んだ理由。

・圧倒的な本数と、伝承が途絶えていない作品
なぜ宗輔が重要なのでしょう。
今上演されている多くの作品が宗輔の手によること、また宗輔作品の伝承が途絶えることなく今に続いていること2点が、今回の選出理由だとのこと。近松でさえも多くの作品が途中で途絶えていて、時間を経て復活された作品が多く、近松で言えば途絶えることなく上演されている作品は『国姓爺合戦』くらいしかないそうです。

 

改めて並木宗輔の書いた主な作品を列挙してみると、

1745年 『夏祭浪花鑑』 
1746年 『菅原伝授手習鑑』
1747年 『義経千本桜』
1748年 『仮名手本忠臣蔵
1749年 『双蝶々曲輪日記』『源平布引滝』
1751年 『一谷嫩軍記。3段目熊谷陣屋』

 

す、すごい!と驚きますよね。

なぜ知名度が低いのか。

それほどの作者であるのに、南北や近松と比べてちょっと知名度の低い宗輔。

「その理由の一つに竹本座在籍の時の名前が並木千柳、豊竹座在籍の時は並木宗輔と名前が変わっていることがあるかもしれません。その時代には、この二つの名前を持つ人が同一人物であることがわかっていたでしょうが、時代を離れてしまえばもうわからなくなってしまったのではないでしょうか」と木ノ下さん。確かに、現代では別人と思っている人も多いですよね。

さらに、竹本座時代の合作では、立作者(3段目を書く人。チームリーダー全体統括)としてクレジットされていたのは、多くの場合竹田出雲でした。竹田出雲は2代目竹田小出雲を合わせると、かなり長い間その名前がクレジットされることとなりますが、実は座元であるため、ほとんど書いていないそうです。ほとんどの作品で宗輔(千柳)が立作者であると知れたのは、戦後の研究によるそうです。


人形浄瑠璃の歴史の中で宗輔の位置づけ

人形浄瑠璃が最も盛り上がった時代は18世紀です。新作が生まれ、どんどんヒットした100年間でしたが、その後はすでにある作品を再演する古典化の時代となっていきます。

その100年間に活躍した作者の大きな山が三つあります。(ほかにも作者はいっぱいいるけれど)

近松門左衛門

まずは、近松門左衛門。さまざまな土台を作り、神様の話である古浄瑠璃を、人間ドラマにおろしてきたパイオニア。看板番付に初めて作者として名前が載ったのも近松でした。
1703年に『曽根崎心中』を書き、18世紀という人形浄瑠璃黄金時代が明けたのです。

・並木宗輔

「操り人形がだんだん流行し、歌舞伎はなきが如くなり。」

興行的にも一番盛り上がった時期の作者となります。
1742~46年 三大名作が作られましたが、その後は歌舞伎に押されていきます。宗輔は歌舞伎作者にもなり、歌舞伎の構成を体得したうえで再び浄瑠璃作者に戻ります。

近松半二

3つ目の山が近松半二。伊賀越道中双六など。1799年に絵本太閤記が作られ、18世紀は終焉します。

浄瑠璃の黄金時代の中でもど真ん中に位置していたのが宗輔なのですね。

宗輔の人生

1713年出家(19歳)
1724年還俗。ちょうど同じ年に近松門左衛門が亡くなる。
1726年 豊竹座で初作が上演。
1742年 江戸を離れ、帰阪後、歌舞伎作者となる。
1745年 竹本座の座付き作者となる。
    『夏祭浪花鑑』 
1746年 『菅原伝授手習鑑』
1747年 『義経千本桜』
1748年 『仮名手本忠臣蔵
1749年 『双蝶々曲輪日記』『源平布引滝』
1751年 豊竹座に復帰。一谷嫩軍記。3段目『熊谷陣屋』が遺作。(57歳)

1751年 死去した年に、近松半二がデビュー。

近松が亡くなった年に、出家していた宗輔は還俗し、作家デビューしました。そして宗輔が亡くなった年に、近松半二がデビューしているという不思議な縁に、木ノ下さん曰く「浄瑠璃の神様っているんかな」。

そして、出家する熊谷を描いて「さらばさらば」というセリフを残して亡くなるのです。

宗輔作品のどこがすごいか

宗輔の作品は、『夏祭浪花鑑』のほか、『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』、『仮名手本忠臣蔵』、(三大名作と呼ばれていて合作だが、宗輔が立作者)、『双蝶々曲輪日記』、『源平布引滝』、『恋女房染分手綱』など、確かに今なお演じ続けられている人気作品が目白押しです。

その作品のどこがすごいのでしょうか。

・「構成・文体・テーマ」がうまく、バランスがいい

戯曲を見る上で大切なのは、「構成・文体・テーマ」です。
構成は、作品全体の構造であり、文体は、詞章やセリフの美しさ。テーマは、この作品で何を描いているのかということです。

木ノ下さんは、宗輔作品はこの3つのどれもうまく、しかもバランスがよいと言います。
近松は文体が突出しているが構成がいま一つかと思われることもある。また半二は構成がうまいが、文体はそれほどでもなく、当たりはずれがある。いずれもバランスを欠いていると言います。

「宗輔が、構成がうまいのは、浄瑠璃作者だけではなく、歌舞伎作者を通過していたからではないか。歌舞伎の構成を体得した。歌舞伎のドラマの立ち上げ方を吸収したからこそ、竹本座で、才能が開花したのではないか」と木ノ下さんが語れば
歌舞伎を通して、人間にはどんな動きができるのか、あるいはできないのかということを知り尽くした宗輔、人形に様々な動きをくわえ、人形の技術が発達したのもこの時代。時代と宗輔はぴったりとはまっていたのだろうと田中さん。

・理性と本能の、葛藤と救済を描く

宗輔は一言でいえば、葛藤を描いた作者です。

『夏祭浪花鑑』や『双蝶々曲輪日記』などの映像を見ながら確認していくと、確かに葛藤が浮き彫りになっています。

『夏祭浪花鑑』では、
建て前重視の団七と人情重視の義平次

『双蝶々曲輪日記』では
実の息子(長五郎)と義理の息子(与平)との間で悩む母
義理と人情のはざまで悩むのは母ばかりではありません。
愛情(母)と、義理(仕事)のはざまで悩む与平は、町人と武士という両方のアイデンティティもあります。
長五郎は、母と義理の兄弟とのはざまで悩みます。

どの登場人物も義理と人情のはざまで悩む葛藤が描かれており、そのため今の世の人の心も打つのでしょう。

さまざまな古典に新しい解釈をくわえて上演する木ノ下歌舞伎を主宰する木ノ下さんですが、『双蝶々曲輪日記』の「引窓」はあまりにも完璧すぎてそれだけでも豊かな世界が見えてくるので新たな解釈をする気にはなれないとのことでした。
私も「引窓」は大好きで、一生の内に何度でも見ることをおススメしたい演目です。
以前のブログでも、何度も見ることを勧めていました(;^_^A

munakatayoko.hatenablog.com

宗輔のパッションとは

さらには『菅原伝授手習鑑』ができたとき、「忠臣蔵」の四段目ができたときなど合作時代のエピソードやら、各作品の細かなポイントなども楽しく語られました。

また、宗輔の作品の戦争というテーマ、命のシリアスな表現がずば抜けていることについての考察も大変興味深く聞きました。
大きな戦争がない時代に生きていた宗輔が、なぜ僧侶であることをやめ、還俗して浄瑠璃作者となり、戦争のむなしさに心を寄せ、理解していたのか。何を宗輔は求めていたのかという謎にも、迫っていきました。

知っているようで全然知らない「並木宗輔」という作者の世界がどんどんと眼前に現れてくるようで、非常に面白かったです。

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▲講座終了。いやあ、満足満足!

 

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▲お疲れ様でした!

 

次回は「寺子屋」~!

次回は、「寺子屋」!!。劇評家のターン。7月17日(日)予定です。
またまたしびれる講座となりそうです!!
みなさま、予定をあけておいてくださいね。