源平合戦のころで、歌舞伎にもまつわる話はいっぱいあるので、歌舞伎クラスタは大喜びです。ここで一気に歌舞伎ブームを起こしたいものです。
配役も、さっそく大評判の北条時政の坂東彌十郎、北條宗時の片岡愛之助、そして満を持して来週第3回からは文覚演じる猿之助と、歌舞伎俳優たちが大活躍です。
北條時政とか宗時はまだわかるような気がするけれど、文覚って何ものでしたっけ?と思う人、ぜひ予習しておきましょう!大変な人ですよ。この人。
そして、よくこの人の役を猿之助にしてくれたなあと三谷幸喜さんには感謝しかないですね。
文覚、その性格
保延5年(1139年)~建仁3年(1203年)。
正しいと思うことは毅然として行う。反対する者はたとえ相手が法王だろうが上皇だろうが、断固として戦う。常に自分の信念に従い、こびへつらうことはないから、時には平家に挑むし、時には源氏にももの申す。
しかも攻撃的で容赦なく暴言をふるうわ大暴れもするわで、敵も又多い。
ね。なかなかそんじょそこらの役者さんではできないと思うので、猿之助、ぴったりじゃないですか。
頼朝に決起を促す
さて、では文覚は何をした人でしょう。
文覚の、すごいエピソードはたくさんあるのだけれど、一番この時代において重要な役割を果たすのは、「頼朝に打倒平家の決起を促す」ということです。そのやり方も荒っぽい。
以仁王の令旨が全国を駆け巡り、それで全国の源氏も立ち上がるわけだけれども、それをもって説得してもいまいち頼朝は「はいよ!」と立ち上がらず腰が重い。
文覚は、頼朝の父、源義朝のしゃれこうべを取り出して説得をしたのです。
平治の乱のあと、牢獄の前の苔の下に埋もれていたまま弔う人もいなかったのを、文覚がもらい受けて、首に下げて弔っていたというのです!ほんまかいなー!
頼朝は自身の親のしゃれこうべを見せられて心は動いたものの、だからと言って反乱ののろしを上げるのは、ちょっと…とそれでも渋っていると、文覚は、後白河院の院宣をもらってきてやるというのです。院宣が手に入れば、平家が賊軍になりますから、それはもう喉から手が出るほど欲しいモノ。しかも文覚はそれを伊豆から都まで3日で行って文書をもらうのに1日、帰って7日か8日で帰ってくるというのです。
伊豆から京都までって、ざっと調べても400キロ。往復で800キロですよ。それを片道3日で行くと言って、本当に馬を飛ばして行って8日目に院宣もらって帰ってきたんです。
すごくないですか?なんというか思い立った時の文覚の行動力が半端ないです。
文覚は流人として伊豆に流されていたんですが、昔の流人って、割と自由ですよね。目の前から消え去ればいいって感じでしょうか(笑)。
後白河法皇と喧嘩して流される
さて、文覚はなぜ流人だったのでしょうか。
京都の高尾で修業を重ねた文覚は、そこにあった神護寺があまりにもさびれていたので再興を決意。資金を募るために、勧進帳をつくり、寄進を求めて回りました。後白河法皇の御所にまで行って頼みますが、パーティー真っ最中の後白河法皇に一向に相手にされず、怒った文覚は大暴れ。牢に入れられてしまいます。その後、牢を出られましたが再び寄進をしてまわり、
「あっぱれこの世の中は、ただいま乱れ、君も臣もみなほろびうせんずるものを」
(ああ、この世は乱れて、今に君も臣もみな滅び果てるであろう)などと言って回るので、どこか遠いところに流してしまえ!と伊豆の国に流されたのです(平家物語巻第五 文覚被流)
伊豆に流されるときに、「われ都に帰って、高尾の神護寺造立供養すべくは、死ぬべからず。その願むなしかるべくは、道にてしぬべし」(もし、自分がまた神護寺の再興ができるようなら、自分を死なせないでください。その願いがかなえられないならば、途中で死んでもいい)
と祈って、31日間断食したのですが、まったく元気で死ぬことはありませんでした。
すご。
平家物語でも
「まことにただ人ともおぼえぬ事どもおほかりけり」(まったく只者とは思えないよ)と語られているのです。
そして、伊豆に流され、頼朝と交流を深めるのです。
確かに間違った人ではない。しかし激しい…。文覚はそんな人です。なかなかこんな人、現代ではいないですよね~。
その後もずっとそんな調子でしたが源平合戦の終わった後、平維盛の息子六代を助け、頼朝に助命を嘆願したりします。六代は、10年以上その後生きますが、文覚が高尾を去った後(これもまた、流されてしまったためなんですが)30歳でとらえられて亡くなります。
文覚は、流された後鎮西で死んだと伝えられています。
激しい修行の末、荒法師となる
文覚は、そんな激しい人でしたがもともとは武士でした。
まず19歳のときに出家した文覚(その理由については後で述べますが)、修業っつうものをしてみようと山に登り、素っ裸になって真夏の太陽の元で7日間、ごろんと寝転びます。アブやらハチやらみっちり刺されまくりますが、平気のへいざ。
その他那智の滝に打たれて、雪のふる中滝つぼにつかったり、断食をしたり、日本中をめぐって修行した結果、ものすごい修験者となったのです。(この辺の話も面白い)
その辺、平家物語に詳しいのですが、ちょっと今から平家物語を読むのはしんどいという方におすすめなのが、こちらの絵本です。
こちらの絵巻平家物語は、(1)~(9)までひとりずつ平家物語の主要人物について描かれており、4巻が文覚。どれもとても読みやすくておもしろいです。あとがきの木下順二のあとがきまでしっかり読んでね。
出家のワケとは
さて、絵本にも書かれていないのが、なぜ武士だった文覚が出家したのかということです。
この文覚、あの「袈裟と盛藤」の盛藤なんですね。胸熱です。
袈裟と盛藤は、芥川龍之介の短編になっていますので、そちらを読むのがおススメですが、お話を知らない人のために書いときますね。
袈裟と盛藤
昔、北面の警護をしていた遠藤盛遠という武士が、ある女性を好いてしまった。その名を袈裟御前という。袈裟御前は、すでに夫のいる身であったので盛遠を拒んだ。しかし盛遠は何とかして袈裟御前を自分のモノにしたいと考えて、袈裟御前に言い寄り、自分と一緒にならねば、母親を殺すと脅した。すると袈裟御前は、それならば夫を殺してくださいと熱い息で耳うちをする。
盛遠は、ある夜袈裟御前の指示通り屋敷に忍び込み、指示された部屋に入り、布団の上から刀で一突きしたところ、それは夫ではなく袈裟御前自身だった。母も殺さず、自らが不倫の汚名もそそぐこともなく、夫の名誉も傷つかないようにするために袈裟御前が考えた一世一代の作戦だったのだ。
盛遠は、深く傷つき、おのれのしたことを悔やみ、恥じ、出家して文覚と名前を改めた。
かくて文覚はめちゃくちゃ修行して「ただびととも覚えぬ人」になったのです。
文覚。熱いですね。猿之助のキャスティングピッタリだと思います。「鎌倉殿の13人」ではそんな出家のきっかけやら、修業の詳細やらは出ないと思いますけれど、こんな背景を知っておくとより楽しめるのではないかと思います。
さて楽しみやな~。