「初めての歌舞伎を楽しもう」munakatayoko’s blog

すばらしき日本の芸能、歌舞伎。初心者にわかりやすく説明します♪

2代目中村吉右衛門。亡くなる。

中村吉右衛門丈が2021年11月28日に亡くなったという発表が12月1日にあった。享年77歳。なかなかブログにも書けなかった。

 

3月28日に心臓発作で倒れ、8か月。報告らしい報告もないままこの日を迎えてしまったが、命の炎を燃やし、ついに力尽きたということか。悲しい。

後からの報道によれば、3月に倒れて以来、一度も目覚めることがなかったとのこと。

 

「5月は出られなくて悔しがっているだろうなあ」

「7月歌舞伎座は、鈴ヶ森で幡隨院長兵衛役なのね。あれは駕籠から出てちょいとセリフを言うだけだから、確かに病後で体力が弱っているとはいえ、できるかも!」

「劇場に来られなくても、きっと病室で丑之助君の活躍を見たに違いない(盛綱陣屋小四郎)笑顔が目に浮かぶようだわ」

「リハビリ頑張っていらっしゃるかな~。きっと頑張っているだろうなあ」

「秀山祭、断念か。悔しいだろうなあ」

 

と折に触れ、思っていたのに、すべては無。夢。むなしい。

 

3月に倒れたときの様子は、こちらのブログで書いた。

munakatayoko.hatenablog.com

 

倒れたときは、菊之助一家と一緒だったのか、家族だけだったのか知る由もないけれど、できれば丑之助君も一緒にいたのだと思いたい。

もっと丑之助君と一緒に舞台に立ちたかっただろうに、ご自身もまだまだ舞台に向かう気持ちもおありだっただろうに。悔しかっただろう。無念だ。

 

「立派な吉右衛門になった」とあの世でばあやに認めてもらうようになるまで私は死ねません」(私の履歴書 日経新聞2018年)

と言っていた吉右衛門。立派な吉右衛門になってしまったから旅立ってしまったのだろうか。

 

亡くなった一報を聞いたとき、とっさには3月に倒れた報を聞いたときに比べればショックは小さく、「ああ、来るべき日が来た」という気持ちだった。突然あの時に亡くなっていたら、もっとずっとショックだった。「今死んだら、みんなが悲しむ」と吉右衛門が感じたのかどうか、8ヵ月頑張ってくれたことこそ、吉右衛門の優しさのような気がした。

菊之助が会見で「8ヵ月がんばってくれた」と言ったのを、わざわざ「8ヵ月(闘病を)がんばってくれた」と(闘病を)を入れた記事があったけれど、あれはいらないと思う。結果的には「闘病を」かもしれないが、歌舞伎のこと、家族のこと、丑之助君のこと、お客様のことを思って頑張っていたはず。ニュアンスとしては>

 

ショックは少なかったはず。ところが、日に日にボディブローのように効いてくる「吉右衛門の死」という現実。

 

舞台には出ていなくても、病院で頑張っていると思っていた吉右衛門が、もうこの世にはいないというこの喪失感が堪える。

 

お葬式は、親族のみで済ませた。というのも哀しい。たくさんの人と送って差し上げたかった。

 

思い出に残るのは、俊寛、石切梶原、夏祭、沼津、熊谷陣屋。人として生きていく上での哀しさ、達観、非情な演技にいつも心打たれた。恥ずかしながら、2019年の沼津のときには2等席をとり、客席降りのときに、手を差し伸べて握手をしていただいた。ふっくらと優しく、意外と冷たい、大きなお手だった。

 

どうか安らかに。そして、吉右衛門の想いを継ぐべく、秀山祭の継続を祈ります。2代目吉右衛門という役者がいたことを皆様に知っていてほしいから。

 

吉右衛門は、秀山祭について、こういっているけれども。↓

自分が初代のような役者にはなれないとしても、秀山祭を続けることで初代という役者がいたことを皆様に知っていただくことになる。私がいなくなった後も、ずっと秀山祭を続けていただけることが願いです(私の履歴書 日経新聞

いやいや。2代目。貴方こそ忘れがたき人。

 

 

中村吉右衛門 1944年(昭和19年)生まれ。実父は初代松本白鸚。兄は現白鸚。4歳で初代吉右衛門の養子となり、その芸の継承に一生勤めた。