「初めての歌舞伎を楽しもう」munakatayoko’s blog

すばらしき日本の芸能、歌舞伎。初心者にわかりやすく説明します♪

阿古屋 壇ノ浦兜軍記より

昨年はずいぶんと阿古屋が話題になりました。12月の歌舞伎座で、玉三郎・児太郎・梅枝と3人が日替わりで演じました。今まで、玉三郎しかできないと言われていた難しい役「阿古屋」をついに、若い世代に継承するという試み。次代への継承という意味でも、興行的にも大成功をしたといえるのではないでしょうか。

玉三郎は自身が阿古屋を演じないときには、赤ッ面の岩永を演じるということも話題作りとなり、児太郎もみたい、梅枝もみたい、もちろん玉様も!というわけで、3回歌舞伎座に行った人も多いようです。

 

玉三郎丈の次代へ継承の想いは、本当に素晴らしく、若手に教えるだけではなく、観客へもまた「阿古屋」の魅力について多く語った1年だったように思います。おかげで私も含め多くの人が「阿古屋」の魅力について知ることになったと思います。

 

というわけで、これはしっかり予習をしておきましょう!12月終わったのになんで今頃?と思うかもしれませんが、12月の歌舞伎座に続き、1月と2月は大阪と東京で文楽の「阿古屋」、そして3月には京都南座玉三郎の「阿古屋」がかかります。

 

見逃している方は、ぜひ見てください。文楽の阿古屋もとってもすばらしいですよ。

 

さて、阿古屋です。

  • 1732年大坂竹本座で人形浄瑠璃初演。すぐに歌舞伎でも上演。

 

■時代背景 源平時代

 

<あらすじ>

 

平家の武将 悪七兵衛景清の行く手を追う源氏。行方を知っているはずと恋人の阿古屋が引っ立てられて、居場所を教えるように責められる。拷問の道具は、琴・三味線・胡弓という3つの楽器。嘘をついていれば演奏が乱れるはずだとして、3つの楽器の演奏を命じられるが、一片の乱れもなく見事に弾きおおせる。

 

<登場人物>

■阿古屋 景清の恋人。知識も教養も高い最高級の遊女。

秩父庄司重忠 温厚で理路整然。教養も高く、心根も優しい。

■岩永左衛門致連(いわながざえもんむねつら)重忠の助役。赤ッ面で意地悪く、阿古屋に水責め、塩責めなどの拷問をしようとする。詮議の途中でウトウトしたり、一緒に楽器を弾く真似を見せたり、笑わせてくれる。歌舞伎では、岩永は人形振り。2019年12月の歌舞伎座公演では、玉三郎の岩永の人形振りが話題を呼んだ。

 

<みどころ>

口を割らせる拷問が、清らかな楽器の演奏という発想。阿古屋の美しい豪華な衣裳。岩永の人形振りなど、みどころはたくさんあるのですが、義太夫で語られる文章も美しいので、ぜひ阿古屋の衣裳にだけ目を奪われることなく、義太夫と、三味線・琴・胡弓の楽器にも耳を傾けてみてくださいね。

 

阿古屋が花道から出てくるところ

 

姿は伊達の打掛や。戒めの縄ひきかえて、縫いの模様の糸結び。小褄取る手もままなれど、胸はほどけぬ思いの色。形は派手に、気はしおれ。筒に活ける牡丹花の。水あげかねる風情かな

 

豪華な着物を着ているけれども、恋人とも連絡はとれないし、つかまっちゃったし、としおれている様子がよくわかりますね。

とはいえ、「気はしおれ」というのは、がっくりくずおれている様子をあらわしているわけではありません。豪華な牡丹の花が少しだけしおれている。水あげがうまくいかなくて、すこしだけ傾いている、それが余計に風情があり、美しさを際立たせているというような意味だそうです。

 

そこに岩永、

「そんなに拷問で参った様子もないし、さては拷問を生ぬるくやったなーー?そうとなれば、自分が吐かせてやるー。自分の屋敷へ連れていけー」などとバタバタ言うのです。

 

重忠は、まあまあ。と押しとどめて

「白状しないらしいけれど、まあそれは無理はない。そうそう言えないでしょうね。でも知っていることを白状すれば、頼朝公にも覚えもめでたくなるし、悪いことにはなるまいよ」と諄々と説くものだから阿古屋はそのやさしさにほだされて

「もし、知っていたなら、ぽーんと言ってしまいそうだけれど、本当に知らないんだからしょうもない」

 

そこに岩永

「このやろう、塩煎責めにしてくれよう」と脅すと、凛として高らかに笑い飛ばし、

「そんなことを怖がって、遊女をやっていられるものか。同じように座っていても、(重忠と岩永では、まるで対照的で)雪と墨」と言い放ち、「知らぬことはぜひもなし、いっそ殺してくださんせ!」とたんかをきるのです。

 

ここで階段にどんと身を投げ出すところが実にかっこいいですね。

 

そして、重忠が拷問の道具として持ってくるのが、なんと楽器三種。嘘をつくなど心にやましいことがあれば、演奏が乱れるだろうということで、演奏をさせられるのです。

 

弾き始めたのがまずは琴。

 

影といふも、月の縁。清しというも、月の縁。かげ清き、名のみ映せど、袖に宿らず

 

景清にかけた歌ですが、「蕗組」という歌の替え歌です。

 

この場ですぐに蕗組の歌が出てきてぱっと替え歌ができる阿古屋もあっぱれなら、すぐに「あの歌の替え歌ね」とわかる重忠も教養が高いのですね。

 

解説がこちらのブログに大変詳しく載っていました。

http://koremitsu54.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-1768.html

 

月があったら影ができるはず。月が出るのに私の袖に影は映らない、景清はいないと阿古屋は嘆きます。

 

次に、重忠は、阿古屋と景清のなれそめについて語れと言います。

 

これはまた、思いもよらぬ変わったことのおたずね。何事も昔となる恥ずかしい物語。平家の御代とときめく春。馴れにし人は山鳥の終わりの国より長々しき、野山を超えて清水へ日毎日毎の徒歩詣で(かちもうで)。下向にも参りにも道は変わらぬ五条坂

 

この後が好きですね。

 

互いに顔を見知り合い、いつ近づきになるともなく、羽織の袖のほころびちょっと、時雨のからかさお易いご用。雪の朝の煙草の火、寒いにせめてお茶一服、それが嵩じて酒(ささ)一つ、こっちに思へばあちからもくどくは深い観音経。普門品(ぼん)第25日の夜さ必ずと戯れの言葉を結ぶ名古屋帯。終わりなければ始めもない。味な恋路と楽しみしに寿永の秋の風立ちて、須磨や明石の浦船に漕ぎ離れ行く縁の切れ目、思い出すも痞え(つかえ)の毒。ああ、疎まし

 

長く引用してしまいましたが、すごく美しいですよね。

 

最初はいつも道で出会う間がらだったのが、

あっちょっと袖がほころびていますよ

雨が降ってきましたよ、傘どうぞ。

たばこの火をどうぞ。

寒いですね。お茶でも一服いかがですか?

お酒を少し、飲んで行かれますか?

こちらが想っているばかりではなく、あちらも想っていてくれたようだ

 

と日毎に少しずつ惹かれ合っていく二人の様子がまるで映画を観るようではありませんか。

 

普門品(ぼん)第25日というのは

法華経のなかの 『観世音菩薩普門品第二十五』という一章のことかと思いますが、この中には念波観念力とい言葉が何度も出てくるようです。それは観世音菩薩の名前を唱えていれば、救われるというようなことらしいので、願っていればまた会えますねみたいなかんじでしょうか?

 

素敵な恋だわと楽しんでいたのに、寂しい秋がきて離れ離れになってしまい、思っただけでも胸が苦しい

 

と阿古屋は言っているのです。

 

重忠は

「うん、わかるよ、わかるけれど、詮議は続けるよ。じゃあ、三味線ね」と言って促します。

 

翠帳紅閨(すいちょうこうけい)に枕並ぶる床のうち、馴れし衾の夜すがらも、四つ門の後夢もなし。さるにても我が夫の、秋より先に必ずと、仇し詞の人心。そなたの空よと詠むれど、それぞと問いし人もなし

江戸時代の遊郭では、四つ(午後10時ごろ)に太鼓を打ち鳴らして門を閉じました。四つ門のあと、朝までずっといっしょにいたのに、今はそれもない。秋以降必ず(会おうね)といったあの人が訪れることもない今。と嘆きます。

 

重忠

「もういいわ。次、胡弓」

胡弓という楽器がまた、物悲しい響きがありますね。

 

吉野山 龍田の花 紅葉更科、越路の月雪も夢とさめては跡もなし。仇し野の露鳥辺野の、煙は絶ゆる時しなき これが、浮世の誠なる

吉野山の桜、紅葉、すばらしく美しいものすべて。夢から覚めては跡形もないのです。と、語る阿古屋に、重忠は、「拷問これでおしまい。景清の行方を知らないというのは、嘘偽りがないと見届けた。」と言って、詮議をやめるのです。

 

本当に文章が美しいですね。。。

 

阿古屋は、シネマ歌舞伎としても2017年に公開されています。また観る機会もあると思うので、楽しみです。

 

実は私、何年か前の阿古屋は、グースカ寝てしまったのです。文章の意味がよくわかっていなかったため、動きが少ないこの演目、眠くなりがちなのです。けれども昨年の阿古屋ムーブメント((笑)の中で、次第に詳しく内容を知ることができ、12月の歌舞伎座の阿古屋は本当に感動しました。

 

玉三郎丈に感謝です…

 

で、今から文楽の「阿古屋」みてきまーーっす!